公開日 2018年01月29日
更新日 2018年02月27日
千葉家騒動と飯篠長威斎家直
『兵法とは平和の法なり!』。戦乱の世に生まれた平和剣法
600年の歴史を持つ天真正伝香取神道流
「天真正伝香取神道流」をご存知でしょうか。千葉県指定の無形文化財で、600年にわたり千葉県を中心に連綿と続く日本武道の源流の一つとされるものです。
その技と精神は代々の門下に受け継がれ、長い歴史の中では、新陰流の開祖上泉伊勢守信綱、鹿島の塚原土佐守とその子卜伝、豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛など、剣聖といわれる傑出した武道家を輩出してきました。また、宮本武蔵も神道流の道場を訪ねたと伝えられています。
この天真正伝香取神道流を起こしたのが、下総国飯篠村、現在の多古町に生まれた飯篠長威斎家直です。ときは1455年(室町時代中期)。多古町一帯が千田荘と呼ばれていた戦乱の世、のちに「千葉家騒動」として伝わる騒動がきっかけとなり、家直は天真正伝香取神道流を起こします。
千葉氏一族を分裂させた千葉家騒動千葉
1455年(室町時代中期)、多古町地方一帯は千田荘とよばれ、猪鼻城主千葉胤直の支配下にありました。
胤直は足利幕府の関東支所というべき鎌倉府において重要な立場にありましたが、古河公方の足利成氏と関東管領の上杉憲忠との争いにまきこまれていました。
この内紛で、胤直は母の実家上杉方に、叔父で幕張城主の馬加康胤は古河公方側に味方をしたことから、千葉氏一族は分裂し、骨肉の争いを始めることになったのです。
千葉家の支族で臼井城主の原胤房と組んだ馬加康胤は、猪鼻城に奇襲をかけ、胤直は島城に、嫡男の胤宣は多古城へ逃れます。
しかし馬加・原の両軍の攻撃は激しく、ついに多古城、島城とも落城。胤宣は自刃し、東禅寺に逃れた胤直もやがて敵方に包囲され自害しました。
ときに胤直42歳、胤宣は弱冠15歳の若武者であったといいます。
ここに、中世の名家千葉宗家は断絶しました。
武芸の達人、飯篠家直の選択
千葉家騒動の中、千葉氏に仕え、武芸の達人として名をはせた一人の武者がいました。それがのちに「天真正伝香取神道流」の開祖となる飯篠家直です(60歳で入道してから長威斉と名乗ります)。
家直は下総国飯篠村(現:多古町)の郷士の家に生まれ、幼少の頃から刀槍の武芸にすぐれ、一時は八代将軍足利義政に仕えたこともありました。
家直は主家千葉氏が滅びると、仕官の道をきっぱりと捨てました。戦さによって家や土地を奪われ、肉親と死に別れる人々の姿を見て、武芸をもって武士として生きることに虚しさを感じたのです。そして世間から隠れるようにして、香取神宮の奥の宮に近い梅木山に住み、神仏の道を志しました。
しかしもともと好きであった武芸の道。「武術は互いに血を流す戦さのためではない」という信念のもと、剣の極意、武術の奥義を究めたいと厳しい修行に打ちこんでいきます。そしてある日、香取神宮の大神経津主命に千日千夜の大願を起こしました。3年の月日が過ぎ、千日千夜を終えるころ、一心不乱に祈る家直の脳裏に「兵法は平法なり! 敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ!!」の言葉がひらめきます。
「兵法とは平和の法であり、大事なのは敵と戦いこれを討つことではなく、敵と戦わずして敵に勝つことを考えることである」と悟った家直は山をおり、香取の地で開眼したことから天真正伝香取神道流と名づけ、香取神宮の近くに武術道場を開きました。
天真正伝香取神道流のはじまり
家直はそれまで決まった「型」のなかった武術の世界に、くさり鎌、棒術、薙刀、槍、小太刀、二刀流など百般にわたる武道の原型をつくりました。
そして「真実の武道は人の心にあり、人の道である。心の中が善であれば、武芸は人を助け世の中を平和にする。
したがって自分自身を完成された人間に近づく努力をしなければならない」と門人たちにさとし、心身鍛練の術として武士から庶民まで広く教えました。
晩年家直は、生家の近くに如意山地福寺を創建し、その2年後、102歳で大往生をとげたということです。